『聖伝』って、どんな作品?
みなさんはCLAMPのデビュー作『聖伝』(せいでん)をご存じだろうか?
1989年から1996年にかけて『月刊ウィングス』(新書館)で連載された神話ファンタジー漫画で、壮大な天界の戦いを描いた作品である。
『カードキャプターさくら』や『XXXHOLiC』などで知られるCLAMPが、本作で一躍脚光を浴びたこともあり、出版元の新書館は「CLAMPで本社ビルを建てた」と言われるほどの大ヒットだったとか。
そんな伝説的作品を、約30年ぶりに読み返してみた私・もものすけ。
ところが感動どころか、ある理由で激しく絶望してしまった——。
夜叉王、まさかの“違和感”スタート?
序盤から湧いた疑問点
『聖伝』の物語を簡単に説明すると、最強の武神将・夜叉王が、封印されていた阿修羅を解き放ち、天帝・帝釈天に立ち向かうべく仲間を集めて旅に出る——壮大な神話バトルファンタジーである。

物語は夜叉族の王である夜叉王が、天帝帝釈天にとって禁忌である、阿修羅の封印を解くところから始まる。
ところが、初巻でいきなり夜叉王に対して気になってしまったことがあった。
帝釈天の禁忌と知りながら阿修羅を目覚めさせる・・

“阿修羅族の子は一族にとって災いですぞ!”と忠告する長老をスルーして出て行く・・

一族が全滅するやいなや、阿修羅と2人旅をスタート、しかも結構楽しそうで・・・

・・・
・・・
・・・
・・・
待って。
夜叉王って本当に、王……? 組織のトップ……?
その判断、あまりにも軽すぎない!?
もうすぐ40歳になる私、もものすけは、この行動にどうしても違和感を抱いてしまった・・。
リーダー像へのツッコミ、そして葛藤
いや、分かってるんです!!
“そこじゃないだろ!”と全国のCLAMPファン、全世界の聖伝ファンから総ツッコミが来そうなのは、百も千も億も承知している。
分かってます、『聖伝』はそこじゃない。
一族の王として立派に活動し、部下や一族の皆から尊敬を集める夜叉王。

確かにこんな風に描けば、リーダーとしてカッコいい夜叉王になるし、阿修羅の封印を解いたくらいのことで一族皆殺しにされた彼の悲劇性がより強まって、読者も感情移入しやすくなるかもしれない。
でも、『聖伝』は組織マネジメント漫画ではない。
ファンが読みたいのは組織でのつまらないアレコレじゃなくアクションだし・・。
テンポ良く物語が進むからこそ、ファンタジーのスケール感が引き立つ。

そんな夜叉王の行動にも、意味があることはわかってる・・のだが・・
それでも!それでもあえて言いたい!
今のもものすけは夜叉王に対して「リーダーとしてそれ、どうなの…?」という感情がぬぐえなかったのである。
10代の感性と40代の視点──純粋だったあの頃に戻りたい
だって10代のころ夢中になって読んだんですよ!
ほんと絵が美しすぎて・・。
表紙だけで1時間は眺めてられる。
地元の本屋で初めて10巻(最終巻)と出会ったとき、そのあまりの美しさに衝撃を受けて目が釘付けになったのを今でも覚えている。

当時の自分にとって、夜叉王は主人公、カッコいい、アクションほぼ無敵=やってること全部正しい!って信じ切ってた。単純だけど・・。
それが今では「王としての責任感は…?」なんて思ってしまう自分がいる。
ホント、大人になるって悲しい。ファンタジーをそのまま受け取れない感性に絶望しかなかった。
6巻の夜叉王に救われた大人の自分
夜叉王に対する違和感は6巻まで続いた。

なぜ6巻かと言うと、6巻で夜叉王が一族のあった場所に戻り、一族のみんなの亡骸を焼いて涙を流し、謝るくだりがあったから。

このシーンでようやく、彼の内面の葛藤と罪の意識が伝わってきてホッとした。
羅刹の存在が”心の代弁者”になった理由
特に弟・羅刹とのやり取りは、大人になったもものすけにとって心の代弁者のようだった。
今回ばかりは完全に羅刹派だった。

かつてはただの“夜叉王の邪魔者”だった羅刹が、今の自分には“視点の補助線”として思えるようになった。
この変化が、ちょっと切なくて、ちょっと嬉しい。
それでも『聖伝』ファンであるという確信
どれだけツッコミが生まれても、どれだけ違和感を覚えても、『聖伝』という作品が大好きな気持ちは変わらない。
CLAMP展での感動と再読のきっかけ
2024年のCLAMP展で、阿修羅のカードを見て心が躍ったし、カラー原稿を前にして泣きそうになった。
あの熱量を思い出して、全巻を揃えなおして読み返した私は、間違いなく今もファンである。
こんな素晴らしい作品を残して下さって、CLAMP先生、本当にありがとうございます!!
そして、これから『聖伝』を読むあなたにも、その衝撃と感動が届きますように。
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